Act.06


 秋吉は、考えていた。
 一体どうしてこんな事に。
 ぐいぐい引っ張られて、秋吉は文句も言えずにただその人に付いていく。他の部員はだらだらと、二人の後ろからのんびりとした足取りで続いている。
「楽しいねぇ、アキちゃん」
 秋吉の手を引く人―藤森―が不意に口を開くので、気付いた秋吉は、生返事をした。楽しいのは部長だけです、内心で呟きながら。そしてこっそり溜息を吐いて、繰り返す。どうして、こんな事に。
 事の起こりは、一時間ほど前だった。

「これが次の台本でーす」
 部活が始まり、部員全員が揃うのを待ってから、藤森は新しい台本を配った。二つ折りにした紙を五枚ほどホチキスで止めた台本の表紙には、“明日の約束”とタイトルが打ってあった。台本は、大体が毎回藤森の自作だ。
「読んでもらえれば分かるけど、簡単に内容を説明するね。主人公はバスケ部エースの少年、一週間後に大事な試合を控えていたのだけれど、運悪く交通事故にあって重体、それで幽体離脱して補欠だった部員の体に乗り移って試合に出ますよ、…と」
 こんな感じです。話し終えた藤森が部員の様子を窺えば、ふーん、といった様子で皆頷く。ぱらぱらと台本を捲って、いいんじゃないの、とか三年は言っていて、二年・一年は、りょーかーい、とこちらも特に異論はないようだ。
「因みに、聞かれる前に答えておくと、バスケ部なのはユキから話を聞きやすかったから」
「では早速配役決めですね」
 藤森に続いたのは、演劇部副部長の夏川悠貴(なつかわゆうき)。二年男子の彼は、「アンタ、しっかりしてそうだから副部長ね」と肩を叩かれ副部長に抜擢された、ある種哀れな少年だった。実際のところ口数が少なく無表情なだけで、成績も中の上という至って平凡な少年だが、他の部員が面倒臭がって決めてしまったので、今のポジションに落ち着いている。
 さてそんな成り行き副部長だったが、なったからには仕方がないと忠実に仕事をこなすものだから、余計に彼がそういう役割だと思われる。今ではすっかり立派な副部長なので、恐らく、いや恐らくというか確実に、次の部長はなし崩し的に彼だと誰もが思っていた。
「えーと、主人公と入られる人とバスケ部員、両親…」
 あれやこれやと立候補やら推薦やらくじ引きやらで全員に役を振り当てた結果、秋吉は入られる補欠部員役、という主人公とも言うべき役になった。他の部員を差し置いて本当にいいのかと思ったが、その、他の部員が「っぽいから」と決めてしまった。なんと緩い部活だと呆れるかもしれないが、これは普段の練習用の台本だったので、皆も余り真剣でなかったのだ。
 「色んな役を回してやっていくのも大切だし」とは、ある先輩の弁である。確かにとんでもない脇役を回される時もあるし、そうでない時もある。どんな役でも楽しむのが大事なのだと、顧問の教員も言っていた。
 そんな訳で役が決まったのだが、バスケ部員役の一人がこう口にした事で、事態は変わった。
「ぶちょー、いいんですけど俺、バスケ経験ないんで、巧く出来るかどうかわかりませんぜー」
「あ、それを言うなら俺も無理かも」
「私もー」
 一人が名乗りを上げると、他の部員もぞろぞろと手を上げ始める。おいおい…藤森は困ったように笑ったが、本当に?確認して、力強く頷き返されると、仕方がないと溜息を落とした。
「あーもー、しょうがない!じゃあ実際見に行くか!」
「バスケ部見学っすか?」
「もし大丈夫なら、少し触らせてもらおう。女子はスカートの下に何か穿いていってねー」
 言いながら、藤森は自らもショートパンツを穿き込んでいる。この学校のジャージは、女子のみ選択肢が三つある。陸上選手が穿くような、ぴらぴら(女子談)のショートパンツと、男女共通のハーフパンツとロングジャージ。藤森は「ジャージとか、ダッサ。あっつ」と言って寒くない時はショートパンツを愛用していた。
 そして女子が支度をしている時、ふと気が付いたように近付いてきて、藤森は秋吉の手を掴んだ。
「…何ですか」
「トキ君が部活してるとこ見た事ある?」
「いえ…ないですけど」
 二人とて、最初から一緒にいた訳ではない。初めの内は違うグループで行動していたし、付き合うようになった時には既に部活が始まっていたので、互いの部活風景など見た事が無かった。なので秋吉が素直に答えると、藤森はにっこり笑い、
「じゃあ、チャンスね!」
「は?」
「彼氏の部活する姿を見るチャンス!ねぇ皆?!」
 彼女が振り向けば、いつの間にか揃っていた部員が、やる気無く、おおーと片手を上げた。藤森の趣味は、部活内でも知れ渡っている。
「だから彼氏じゃな」
「行くわよ皆!二人の愛の為に!」
 あの、目的が変わってます、部長。秋吉の声は藤森に届かない。早速自分の手を引いて部室を飛び出す彼女に、だが結局、秋吉は抵抗出来ずにここまで来てしまったのだった。

「お、やってるやってる」
 そりゃあやっていなかったら問題だろうと思いながら、体育館前に辿り着いた秋吉は呟く藤森の背を眺める。手を離し振り向いた藤森は、集まった部員全員に向かって声を上げた。
「えっと、それじゃあちょっとお伺いを立ててくるので、ここで待機ね」
 うーすとかはーいとか返事が返るのを聞いてから、良しと頷いた藤森は一人体育館へ入っていく。
「…大変だな」
 ぼそと言われて、秋吉はいつの間にか隣に立っていた夏川を見上げた。苦笑いをこぼし、
「副部長ほどじゃないですよ」
「いや、俺は…」
「あ、割と楽しんでいるんでしたっけ」
「まぁ、慣れてくれば」
 返され、笑った秋吉の視線は体育館の中へ向く。扉の隙間から見える藤森は、愛想よく顧問と花邑を前にして話している。何だかんだ言っても、彼女は優秀だ。教師の信頼も厚いので、大抵の事ならOKがもらえる。
 少しして話がついたのか、軽く頭を下げた藤森がこちらへ向かってくるので、夏川と秋吉は一歩下がって彼女が出てくるのを待った。出てきた彼女は笑顔で親指を立て、部員を中に招き入れた。
「はい皆、エースは、そこの青色1番です」
「おーいアイ、俺一応部長なんだけど…何その合成着色料みたいな説明?」
「文句か?」
「…判り易くて結構ですね!」
 ぎろりと睨まれ、青色1番こと花邑は返す。場にいた全員が笑って、微妙に緊張していた場が和んだ。この二人のコンビは、こうやって変なわだかまりを取り除く。そういうところが人のついてくる要因なのだろう。
 秋吉も笑ってふと視線を上げると、こちらを見ていた時山と目が合う。にっと笑って軽く手を振られ、ばぁか、口の動きだけで返した。
「で、普段は…二つに分かれて試合してんだよね?」
「ああ。メンバーは毎回変えてるけど、実際そうやった方がいいし。勿論、基礎トレとかもするけど」
「ん、ま、一先ず試合見せてよ。とりあえず動きが見たいんだ」
「へいへい…じゃ、ステージの上とかで頼むわ。ボール飛ぶと困るし」
「了解。そういう事だから、皆上って上ってー」
 藤森が演劇部員をステージ上に追いやっている内に、花邑はバスケ部員を集めて指示を出している。どうやら、彼は今回は見学らしい。赤と青、二つに分かれた部員を置き、ホイッスルを持って藤森の隣に座ると、「始めるから」彼女に告げ、ホイッスルを吹いた。
 ピーッという音と共に顧問がボールを投げ、真ん中に立っていた二人が飛び上がってそれを弾く。青色側のコートにボールが落ちて、すかさず赤がそれをつかまえていた。
「今日はちょっと、青が不利なんだ」
 コートの方を見ながら話す花邑に、どうしてと藤森が聞き返す。演劇部員全員にも聞こえていて、皆の視線はそちらへ向いた。
「くじで決めたんだけど、力が少し偏って…」
「あれま、なのにそのままでやってんの?」
「ハングリー精神に期待。でも、どうかなぁ…」
 彼が言葉を切ったので、演劇部員の目はコートの方に戻る。そこで秋吉は、気が付いた。時山は、青だ。
「で、所謂エース君は?ユキ以外の。あ、番号で宜しく」
「赤色5番と17番、かな。青は39番」
 39番。…時山だった。どきりとして、秋吉は思わず部長達の方を伺った。そっと。気付いたらしい花邑が、少し笑って、
「時山は一年だけど、上手い」
「あら、だってさ、アキちゃん」
「…それは凄いですね」
 そっけなく返すと、藤森はやたら嬉しそうに笑い、花邑は冷たいなぁと朗らかに笑った。他の部員はもう試合に釘付けになっている。藤森が「エースは赤3と16、青の39番」と部員たちに告げ、動きの違いを見ろと言って自分もコートに視線を遣ったので、秋吉もきちんと試合に集中する事にした。
 初めの内は予想通り赤が優勢だったのだが、休憩を挟んだ後、青も追い上げだしたので、見ている側は当然、当の赤グループはもっと驚いたようだ。力の差があったと油断していた所為か、急な追い上げに冷静さを欠いたらしく、チームワークが悪くなってくるのに対し、青は逆に結束を強めて攻めていく。
「…ユキ、これって見事なハングリー?」
「っつうか…時山…」
 ぽかんとする藤森に、花邑は苦笑い。彼の言う通り、時山が中心になって皆を集めている。元々一人でシュートを決めていた彼が、皆に合わせ、皆が彼に合わせ、綺麗なチームワークになっている。休憩の時に彼を軸にしようとでも話したのだろうか。
「時山ナイッシュー!」
 ばしん!と時山がダンクシュートを決め、仲間が声を掛けると彼は笑い、ちらとこちらを見て、これまた笑いながら握った手を軽く上げた。これは流石に無視する訳にもいかず、秋吉も小さく手を上げて返す。
 隣を見ればにやにやした藤森がこちらを見ていたので、居心地悪く眉間に皺を寄せると、藤森の向こうで花邑が悪いねと苦笑いを浮かべていた。
 結局、どうにかペースを取り戻した赤が取られた分も戻そうとし、勝敗は引き分けに終わった。

「それじゃ、人数丁度ぐらいか。個々にバスケ部員つけるので、適当に遊んで下さーい」
 花邑が指示し、演劇部員一人にバスケ部員一人でペアを組み、実際にボールを触ってみる事になった。
 余談だが、バスケ部には結構イケメンが多い。演劇部女子はそれにはしゃぎ、きゃきゃと嬉しそうにしていた。中には時山と組みたそうな女子もいたのだが、彼はいち早く秋吉の元へやって来たので、仕方なく諦めたらしい。
「俺、カッコ良かった?」
 ゆっくりめにドリブルをしながら、ひそりと訊かれ、秋吉は「はぁ?」と返した。
「アキが見てるから、頑張ったんだぜ。まぁ、引き分けだったけどー」
「馬鹿言ってないで真面目にやれよ」
 だん、だん。
 床と、照れ笑いする時山の手の間を往復するボールを眺めたまま、尚も秋吉の返事は素っ気無い。
「真面目だったよ。アキがいるからいつもより真面目だったって」
「じゃあ普段は不真面目なのか?」
「そういうんじゃないけど…」
 だん、だん、だん。
 一定のリズムを保ったボールを眺めていると、会話のリズムまでそれに合わせられるようで、まるでメトロノームだなと秋吉は思った。照れ笑いが苦笑いに変わっても、時山の手は冷静だ。
「…隙ありっ」
「あっ」
 不意打ちで、秋吉が時山の手からボールを奪う。二人がいたのは丁度コートの中心に近い辺りだったのだが、ドリブルしながら秋吉はそこから近い方のゴール目掛けて走る。
「アキ!ずりぃぞ!」
「試合じゃないからいいだろっ?」
 ばんばんばん、先の時山より速いペースでボールを床に叩きつけ、秋吉はゴールネットへ走った。追いかけてくる時山を小柄な身体で避け、3ポイントの位置で立ち止まり、そこからボールを手放す。思わず見惚れた時山は、取ろうとしていた手のまま、その行く先を見詰めてしまう。
 綺麗な曲線を描いて、赤い球体が吸い込まれるようにネットへ入り、どん、と床に落ちた。
 思いの外大きく響いたのは、他の部員達が手を止めてこちらを見ていたからだ。シュートして満足した秋吉は振り返り、気付いて恥ずかしそうに笑うと、「…何ですか?」と零した。
「…あ、あー…いや、」
 そう口を開いたのは花邑だった。隣の藤森と共にぽかんとしていたのだが、咳払いを一つすると、
「バスケ部に転部しないか、アキ君」
 だがその瞬間に藤森の鉄拳が腹に炸裂し、花邑は「うごふっ」と低い呻き声を上げてその場に蹲る。
「部長の目の前で勧誘とはいい度胸だな、ユキ」
「じょっ…冗談だろ…!」
「ほう、奇遇だね、私も冗談で殴ったんだ」
 にこりと笑い、花邑の傍らに膝をついた藤森はその肩を叩き、しかし笑っていない目で囁くように続けた。
「…でも、ちょっと加減を誤っちゃったかも…?ごめんなぁ?」
 冷たい笑顔に、その場にいた全員がぞっとする。これが藤森アイ、…決して怒らせないようにしよう、と皆は心の中で誓った。
「…ま、それはともかく」
 しかもともかくで流しちゃうのか、全員が思うが、誰も口には出来ない。立ち上がった藤森は部員の顔を見回し、時計を見てまだ時間があることを確認すると、再びペアでの演習を続行するよう指示を出した。それに皆が従い空気が戻ってきたところで、居心地悪げにしていた秋吉は俯いてぽつりと漏らす。
「…変に注目浴びた。ハズイ」
「そりゃ、急にあんな事すれば」
「時山にそんな風に言われるのはもっとハズイ…」
「おい」
 俺はそんな奇天烈な事した覚えないぞ。時山がひくりと頬を引き攣らせて言えば、秋吉はぶぶぶと笑った。冗談と呟き、拾ってきたボールでドリブルしだす。だがすぐに取りこぼすので、不思議そうに手を止めて、
「…あれ、うまくいかないもんだな。時山みたいにずっとやっていられない」
「まぁ、あれもコツというのか、何と言うか…慣れ?」
 ふぅんと返し、秋吉はまたボールの往復運動を始める。自分のこれはドリブルというよりも、どちらかと言えば手毬のようだと我ながらに思っていた彼を、時山は腕組みして見詰めていた。
「なぁ時山」
「ん?」
「さっきの俺、カッコ良かっただろ?」
 に、と笑って見上げると、時山は一瞬呆気に取られて、それから苦笑いを浮かべて、「うん」頷いた。
「アキってばマジカッコよかったぜー、俺のメンツ丸つぶれ」
「あはは」
「笑い事じゃねーよー」
「嘘だろ、顔が笑ってるぞ時山」
 指摘すれば、しまったといいながら、時山はわざとらしく顔を手で覆う。そしてすぐにいつもの表情になって、でも割とマジで、口を開いた。
「女の子、ちょっと見惚れてる子とか、いた」
「え?」
「秋吉見て、さ」
 声を抑えて告げてくる時山に、驚いてから秋吉は悪戯っぽい笑顔で彼のわき腹を突く。
「…妬いた?」
「そりゃ」
 憮然と答える時山に、ならいいんだ。笑って返しながら、秋吉は心の中でも笑顔だった。
 先程は冷たくしたが、本当は秋吉だって、バスケをしている時山を格好いいと思った。本当に、そう思った。
 だけど、言ってやらないのだ。こういうのはきっと、言わないでおく方がいいと、思うから。
 心に一つ宝物みたいな秘密を隠している秋吉は、けれど時山も何か隠している事を知らなかった。時山もまた、本当はスリーポイントシュートを決めた時の秋吉を、とても綺麗だと思ったのを秘密にしている事を。

 お互いを讃える秘密を隠して、二人は何も知らないように笑って、恋を続けていくのだ。